街道歩きレポート:旧山陽道(西国街道):玖波~周防高森
2020年8月8日に旧山陽道(西国街道)を玖波から周防高森まで歩いてみました。この区間のルート情報は↓からどうぞ。
旧山陽道(西国街道):玖波~新岩国のルート情報 旧山陽道(西国街道):新岩国~米川のルート情報玖波~間の宿小方
玖波駅を午前8時30分に出発しました。 玖波宿本陣があった交差点から山口方面へ向けスタートします。
スタート直後に鍵型道路があります。
玖波宿から山陽自動車道方向へ進み,高速道路と並行するように進みます。 小高い場所でそこそこ景色が良いです。
しばらく進むと今度は高度を下げながら団地の中を進みます。 まったく街道らしさはありません。
再び平地に戻ると間の宿だった小方です。 古い建物などが残っています。
間の宿小方~苦の坂峠
小方を過ぎると再び高度を上げていき,再び高速道路と並走するように。 途中「橋姫神社」という交通の神様があります。 山陽自動車道建設でここへ遷座してきたそうで。
橋姫神社を過ぎると,並走する高速道路はトンネルの中に入ります。 街道はこの先,足場を上って山の中へ入っていくようなのですが・・・
すごく入りにくい感じなのです。左手が民家?作業場?っぽくて。 しかしこの足場を上っていくのがやはり正解です。
足場の階段を上っていくと一本道。 途中にはこんな変わった建物もあります。
郵便関係の施設?と思ってしまいますが,調べてみると逓信省が設置した長距離電話ケーブルの中継施設なのだそう。 この施設を過ぎると峠の頂上です。
「苦の坂」の由来は「市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)」という神様が宮島へ行く時にこの峠で「えらや苦しやこの苦の坂は 金のちきりも 要らぬもの」と言って榺(ちきり・機織り機の部品なのだそう)を池に捨てたという伝説にちなむそうです。 現在歩いてみるとはそれほどたいした峠ではないです。 ただ歩いたのが夏だったので,やたらと蚊が多いのに閉口しました。
またこの苦の坂は第二次長州征伐の戦場でもありました。 峠南側入口に由来が書かれた看板があります。
頂上からの下りは上りとは打って変わって石が多く歩きにくいです。 石畳が崩壊した・・・というわけではないのでしょうが,やたらとガレています。
峠を降りると榺池(ちきりいけ)神社があります。 この神社は先ほど出てきた市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)にまつわる神社で,彼女が榺(ちきり)を捨てた池の上に社を建てたんだそうです。
この神社にはもう一つ「汐涌岩(しおわきいわ)」という伝承もあります。 これは厳島管絃祭が行われる旧暦6月17日には岩穴から塩水が湧き出るというもの。 どこにあるのだ?とぐるぐる境内を回っていると,石垣と一体化していました。灯台下暗し。
苦の坂峠~関戸宿
苦の坂を下りて車道をしばらく進むと,ひっそりと「太閤振る舞い井戸」があります。 豊臣秀吉が九州へ出陣した途中にここで休憩し,点てられたお茶にご機嫌になったのだとか。 現状,ほぼ側溝と一体化しており,案内板もないためかなり注意していないと通り過ぎます。 案内板くらいはあった方がいいんじゃないでしょうか,もったいないです。
さらに進むと木野川渡し場へ。
木野地区は,小瀬川が川止めになると川待ち宿にもなっていたようで,古い町並みが残されています。
「津屋のお茶屋」と呼ばれた茶屋本陣もあり,本陣門が今も残っています。
この川は現在も広島県と山口県の県境になっています。 山口県側には吉田松陰が江戸へ護送される途中に詠んだ歌碑があります。
山口県側に入ると,次なる峠,小瀬峠に向かいます。 一部,旧道が整備されていて歩けます。 ただ車道からのポイ捨てでしょうか,やたらとゴミが多いのが残念。 また一部若干ヤブっぽいですが,十分歩けます。
峠を越えて・・・
下り道も旧道が整備されています。
山道を下っていると突然こんなものも。 ただの山道ではなく確かに山陽道なのだなあということを感じさせてくれます。
小瀬峠を下ると関戸宿です。 宿場っぽい町並みはほとんど残っていません。 本陣の土塀跡とされるものがわずかに残っていますが,うーん・・・という感じ。
立派な門がある家とかはあるのですが,関係ないのでしょうかね。
関戸宿を出てしばらく進むと,多田の一里塚跡が。 木製でまもなく朽ちてしまいそうです。
さらに進んで錦川,御庄の渡しを越えて・・・
御庄宿に入ります。 しかし,この宿も新岩国駅設置に伴う開発のためか宿場らしい雰囲気はほとんど残されていません。 少し前まで残っていたという本陣建物もこのとおり,更地になっており案内板も何もありません。
御庄宿を出て御庄川沿いに歩を進めていきます。 しばらくすると間の宿だった柱野宿へ。 ここは古い建物がいくつか残されています。それよりも宿場町には不釣り合いに思える広い道路幅。
なんでも大火があった後,道幅を広げたらしいです。 江戸時代にこの道幅はすごいと思いました。
柱野宿を出ると,中峠・欽明路峠へ向けてじわじわと高度を上げていきます。 小さいとはいえ,すでに2つ峠を越している状態からの標高差200mはけっこうしんどい。
欽明路トンネルの脇をかすめて,中峠へ
中峠からちょっと進むと欽明路峠。 今日の上りはこれで終わりです。
欽明路峠からの下りには,万葉歌についての解説碑があります。 古代山陽道時代にも,この峠キツイぜという歌が詠まれているようです。 さもありなん。
峠を下りると「欽明路」の由来である寺「欽明寺」がありますが,疲れていたので石段を上がる気力がなくスルー。
周防源氏武田氏屋敷跡もありましたが,荒れた感じでヤブ蚊が多そうだったのでやはりスルー。
しばらく進むと玖珂宿へ。 宿場の中心部にはそれらしさはほとんど残されていません。 代官所・本陣跡は岩国市玖珂総合支所になっており,案内板等もありません。 斜め前にちょっとそれっぽい門構えの家があったりしますが,関係ないのでしょうね。
しかし,宿の中心部を離れるにつれて素敵な建物が増えていきます。
立派な神社もあります。
いったん町を離れますが,すぐに次の集落へ。高森宿です。 玖珂宿と高森宿の間は,岩国藩と長州藩の藩境であったため,こんな近距離で宿場があるのだそう。
高森宿もあまり古い建物は残っていませんが,本陣門など一部が残っています。
吉田松陰の定宿地なる石碑もあります。
しかし,少し離れた場所にも「吉田松陰先生宿泊之地」と書かれた石碑があり,なんだかよくわかりません。
今回はここで終了しました。 午後5時半,疲れました。