街道の歩き方
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宿場とは

宿場の様子が描かれた浮世絵

宿場とは

街道上に一定距離で置かれた町で、基本的に宿泊と人馬継立の機能を持ちます。

宿泊施設

本陣(御茶屋、御仮屋)

現存する本陣建物の例
因幡街道大原宿本陣 "ファイル:Ohara-juku01s3200.jpg" 著作権者 663highlandさん ライセンス:CC by-sa 3.0

大名、公家、勅使、幕府役人など高貴な人専用の宿です。 一般人はいくら金持ちでも宿泊できませんでした。

毎日宿泊客がいるわけではないので普段から宿屋というわけではなく、宿場の有力者宅が本陣として指定され、必要なときだけ人を泊めるようにしていました。

本陣には門や玄関、上段の間(貴人が宿泊するための部屋)の設置が求められていました。 上段の間は離れとして設けられ家人の居住部分とは区別されていました。 立派な門は本陣を象徴するもので、宿場制度が廃止された後に門だけ近所の寺院などに移築されるケースがいくつか見られます。

中国地方の一部や九州など、地方によっては藩が運営していた公営本陣も存在し、御茶屋と呼ばれていました。

また東北地方では「御仮屋おかりや」、仙台藩などでは「外人屋」と呼ばれていたようです。 ちなみに「外人」というのは、藩外の人のことです。

脇本陣

本陣の補助的施設で、参勤交代が同じ宿に重なった場合など本陣だけでは足りないときに使われていました。 本陣と違って普段は旅籠として利用されている施設もあったり、寺院が脇本陣を務めたりしていました。 そもそも脇本陣がない宿場も多くあります。

建物については旅籠と変わらないようなものから、門構えや玄関、上段の間などすべて備えた本陣並みのものもありました。

九州などでは脇本陣のことを「御茶屋」と呼んでいたそうです。

旅籠はたご

現存する旅籠の例
旅籠屋の一例 "ファイル:2016-08-05 Tokaido Seki Juku Kameyama City Mie,東海道五十三次 関宿 DSCF6860.jpg" 著作権者 松岡明芳さん ライセンス:CC by-sa 4.0

庶民向けの宿で、1泊2食付の宿屋です。 飯盛女めしもりおんなという名目の遊女がいる飯盛旅籠とそういうのがいない平旅籠ひらはたごがありましたが、当然というかなんというか飯盛旅籠の方が流行っていたそうです。

東海道品川宿や中山道板橋宿、日光街道千住宿などのように宿場というよりも遊郭街として有名になるような宿場も多くありました。お上的には後述する人馬継立で宿場へかなりの負担をかけていたため、こういった行為を半ば黙認していたようです。

九州などでは旅籠のことを「旅飯屋」と呼んでいたそうです。

旅籠の中には今も現存していてなおかつ宿泊できるところがわずかですがあります。 しかし東海道赤坂宿の大橋屋のように、近年になって廃業する旅籠も多くその数はじわりじわりと減っていますから、今のうちに泊まっておきましょう。

木賃宿

木賃宿の様子
木賃宿の様子

自炊専用の素泊まり宿です。 左の浮世絵のように、各自が食料を持ち寄って自炊をし、寝るときは雑魚寝です。 宿場が整備され身軽な旅が流行るようになってからは、旅籠におされ衰退気味でしたが、巡礼者や行商人などはこちらの方を利用することが多かったようです。

東海道日坂宿中山道妻籠宿などに建物が現存しています。

人馬継立じんばつぎたて

人馬継立の様子
問屋場での人馬継立の様子

人馬継立とは

人馬継立とは宿場に人足や馬を用意して、幕府役人が出張する際などに荷物運びなど各種雑用にあたることです。 宿場から宿場へリレー形式で送ります。

貨物や書状も同様にして送られました。いわゆる飛脚です。

このように人馬継立制度というのは、江戸と全国各地に散らばる天領とを結ぶ、幕府による全国支配の基盤になる仕組みで、宿場というのは宿泊機能よりもこの人馬継立の方が大切でした。

しかし幕府の御用だと利用料金が無料もしくは低料金であることや、急ぎの場合は夜中でも対応しないといけないこと、時代が下るにつれて交通量が増えていき常に人馬が不足したことなどから、この制度により多くの宿場が疲弊することとなりました。 宿場には税金が免除されたり、(非公認ですが)遊郭を経営するなどの特典があったにもかかわらず疲弊していったということは、よほどこの業務の負担が大きかったのでしょう。

人馬継立や後述する助郷については、島崎藤村の『夜明け前 第一部』あたりを読むと具体的なイメージがつかめるかと思います。 中山道馬籠宿本陣を舞台にした話なので、街道を歩くなら一度は読んでみるとよいと思います。

問屋場

この継立業務を行うために、宿場には「問屋場といやば・とんやば」というものが置かれていました。馬継所、馬借所、荷付場などとも呼ばれていました。

問屋場の現存建物は本陣などよりもさらに少なく、中山道奈良井宿中山道醒井宿などわずかしか残っていません。

また東北地方では問屋のことを「検断けんだん」と呼ぶことが多く、これは人馬継立の業務だけではなく、宿場内の取締り(警察)業務も兼ねていました。

加宿や合宿、助郷

宿場に指定された村落が小規模で、定められた人馬を備えることができない場合は隣の村落などにも人馬役を負担させることがあり、これを「加宿かしゅく」と呼んでいました。

また複数の宿場で問屋業務を分担して行うこともありました。これを「合宿がっしゅく」と呼びます。 例えば日光街道の栗橋宿、中田宿は問屋業務を毎月半分ずつに分けて行っていました。

一方で、宿場に定められた人馬を超える役目があった場合は、近郊の村落から臨時の人馬を集めて対応していました。これは「助郷すけごう」と呼ばれていました。

しかし時代が下がるにつれて、常に助郷が必要な状況になり、宿場だけでなく近隣集落も大きな負担になっていたようです。

飛脚

継飛脚

幕府が使っていた「継飛脚」もこの人馬継立の一つです。継飛脚は「御状箱」と呼ばれた箱を担ぎ、急ぎの場合だと江戸~上方を約70時間で結んでいました。

この御状箱の通行は最優先とされ、夜でもかまわず走っていましたし、川止めが解除されたら真っ先に通行できるのは大名行列ではなく御状箱でした。

大名飛脚

継飛脚は幕府しか使えないので、紀州藩など一部の藩では藩専用の「大名飛脚」を設けることもありました。 紀州藩はそのために街道沿線に7里ごとに中継所を作り、「お七里役所」と呼んでいました。 が、当然コストはかなり悪いことから廃止した藩も多かったようです。

飛脚問屋

一般武士や庶民はどうしていたのかというと、飛脚問屋を使っていました。 今でいう郵便制度に近く、毎月決まった日に荷物を集荷して人馬継立を利用して輸送していました。

しかし人馬継立は基本的に幕府のものですから民間利用できるのは御用がなくて暇なときだけなので、所要日数は江戸~上方が30日程度が標準だったようです。 また延着や紛失も少なくありませんでした。

そのため急ぐ場合には速達の「六日限り(江戸~上方所要日数6日)」「早便り」などもありましたが、こちらも延着傾向にあったようです。

その他の宿場施設や特徴

見附、常夜燈、棒鼻ぼうばな

棒鼻
見附(土手と柵)や棒鼻(真ん中に立っている高い棒)の様子がよく分かる浮世絵
常夜燈の例
旧山陽道海田市宿の常夜燈

宿場の出入口には見附(見付とも)や木戸、棒鼻ぼうばなが設けられていました。

見附は元々見張りを置くための軍事施設のことで、宿場の見附とは出入口の両脇に土手を築きその上に柵を設けたものです。 棒鼻は宿場境を示す目印の棒です。

また宿場の出入口に常夜灯が設けられることも多かったようです。 幕府の継立などは昼夜を問わない体制だったため、常夜灯もその名のとおり夜はずっと明かりがついていました。 今と違って昔は明かりが少ないので、常夜灯程度の明かりでも場所によっては一里離れたところからでも見えたそうで、まさに灯台のような存在だったことがわかります。

高札場

高札場の例
"ファイル:Hagiokan fudaba.JPG" 著作権者 TT mk2さん ライセンス:CC by-sa 3.0

左の写真は萩往還の唐樋札場が復元されたものです。 このようなものが宿場の出入口や中心部など目立つところに置かれ、法令の周知などに利用されていました。 人馬継立の値段も高札場に掲示されていましたので、宿場には必ず高札場がありました。

鍵型道路(鍵の手、枡形)

鍵型道路の例

城下町や宿場によく見られる道路で、本来真っすぐでよいはずの道路がわざと鍵型に曲げられています。 四角い空間を作って、そこで道路を屈折させている場合は「枡形」と呼びます。 元々は城の防御施設です。

けっこうごちゃまぜに使われていることが多いですが、単に道路が曲げられているだけの場合はどこにも四角い空間がないので、枡形ではなく鍵の手と呼ぶ方が正しいでしょう。

城下町の場合は防衛目的と言われていますが、宿場にあるものは大名行列への土下座時間を短くする(行列が見えなくなるまで土下座をしないといけないので、道を曲げることで早く視界から消えるようにする)ためなどとも言われています。

極端な例だと岡崎城下には「二十七曲り」と呼ばれる道路の屈曲が27か所もあります。

鋸歯状の町並み

鋸歯状町並みの例

道路に対して建物が斜めに建てられていて、ギザギザのノコギリ歯のように見える町並みのことです。 「武者隠し」と呼んでいる地域も。

これも鍵型道路のように大名行列への土下座時間を短くするためだとか兵士を隠すため、家の前に台車を置くスペースを取るためとか言われています。 「武者隠し」は兵士を隠す説からきた呼び名ですね。

私は「地割(土地の区分け)が道路と平行でなかっただけ」という説が正しいのではないかと思います。 航空写真とか見ているとこれが一番自然ではないかと。

立場(継立場)、間の宿

宿場間の距離が長い場合や峠の入口・頂上、川越しの手前などに、休憩場所として立場たてば(継立場、駕籠立場とも呼ばれる)が自然発生しました。 それが発展して間の宿あいのしゅく(間宿とも)と呼ばれることもありました。 宿場ではないので、人馬継立業務は課されていませんし、宿泊もできないことになっていますが、実際はこっそり泊めさせていた例も多くあったようです。

でもそんなことをしたら本来の宿場の儲けがますます少なくなってしまいます。 実際に本来の宿場と間の宿とがもめた記録も残っています。

街道筋を調べているとなぜかこの間の宿に脇本陣跡、旅籠跡と伝えられている施設が出てきます。 大っぴらに宿泊ができないので、そんなものはないはずなのですが・・・

ちなみに大名など貴人の休憩所として茶屋本陣(小休こやすみ本陣などとも)というものは設けられていました。

また、半宿はんじゅく・はんしゅく(小宿、端宿などとも)というものもあり、これは間の宿と同じような意味で扱われることもありますし、宿泊施設のない人馬継立のみの宿場や駅などを指すこともあります。 旧山陽道などではこの半宿がやたらと多いです。