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羽州街道:関~湯原のルート情報

最終更新日:2024-02-29 22:05:00 ※ 街道ルート情報の見方はこちら
  • 赤/橙:ルート,見どころ
  • 黒/灰:難所
  • 黄:迷いポイント
  • 紫:交通手段
  • 青:休憩場所
  • 緑:宿泊施設

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基本データ

注:(往路)は桑折→油川方面、(復路)は油川→桑折方面を表す
距離 13.4km
累積標高 296m(往路)
140m(復路)
所要時間(4km/h) 04:00:00(往路)
03:40:00(復路)
羽州街道:関~湯原間標高グラフ

この区間の宿場

関宿せき 関は七ヶ宿街道で最大の宿場で、浪花講の看板が多かったのだそう。 天文年間(1532~55)のころには関所があり「早瀬の関」「下の関」と呼ばれていた。[3]
滑津宿なめづ 『奥州紀行』を記した富田伊之は滑津宿について「山中にてきたなき所なれど馬次の場なり」と悪く書いているが、現在も残されている安藤家本陣は立派なもの。 当時は安藤家と向いの桜井家で本陣を務めていた。
峠田宿とうげだ 峠田は自然発生的な集落ではなく江戸時代に宿場として整備されたらしい。小規模な宿場だった。[3]
湯原宿ゆのはら 湯原宿は藩境にあたるため、七ヶ宿地域を支配するための館や番所が置かれていた。

見どころなど

関宿本陣跡 庭園が残る
関の地蔵 関宿の西口に西向きに立っている地蔵。滑津宿で東向きに立っている振袖地蔵と恋仲なのだそう。 ここには鍵型道路もあった。
安藤家本陣 滑津宿の本陣。上段の間などがそのまま残されているが非公開。 安藤家は天保期以降に滑津宿の肝煎検断・本陣を務めていた。[1]
振袖地蔵 滑津宿の西口に東向きに立っている地蔵。振袖を着ていることから振袖地蔵と呼ばれるようになった。 地蔵の由来は、秋田藩の殿様が江戸へ向かう途中に滑津付近で美しい娘を見初めたが、江戸から戻る途中に娘を探させたところすでに亡くなっていた。悲しんだ殿様が娘の供養のために振袖姿の地蔵を作ったのだそう。[2]

難所

交通手段

手段 日中の本数 メモ
七ヶ宿町町営バス 内川~湯原 1日数便

その他メモ

参考資料

  1. 七ヶ宿町観光サイト 安藤家本陣
  2. 七ヶ宿町観光サイト 振袖地蔵
  3. 羽州街道交流会 羽州街道と宿場